「神様が私にして下さったこと」ー 伊東道夫

私は、一九六八年四月十四日のイースターの日に信仰に導かれました。私の救いのあかしは四九年前にさかのぼります。
私の学生時代は、六0年安保闘争の時代でした。私は、学生時代に心の病を煩って、二年間、入院生活していた時がありました。
そんな時、辻堂東海岸に、私の住まいのすぐ近くに、ウオルター宣教師夫妻と古田吉光先生が、協力して、新しく教会の働きが始まったのです。

当時、私は、二五才でした。その教会で、初めてイエス・キリストの福音を聞いたのです。私の心の病の病歴は、いつも私の心の中の傷、重荷、劣等感となっていました。
自我が強く、いつも人とぶつかり、親不孝の連続のような生き方をしておりましたので、自分だけが罪深い者と思っていました。

しかし、教会で、聖書を通して、人はみな例外なく、生まれながら、神様に背く罪という性質をもって生まれ、すべての人がイエス・キリストによる救いを必要としていることに気づかされました。

自分でも自分を愛せない、好きになれない自暴自棄な生き方をしている私をさえ、キリストは愛して、私のすべての罪の赦しのために私の罪の身代わりに十字架にかかってくださったことを知ったのです。
そして、このままの姿で、「疲れているなら疲れているまま、重荷を負っているなら重荷を負ったまま、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます」と招いてくださっていることを知ったのです。

その時に与えられたみことばは、ヨハネの福音書三章十六節のみことばです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。」

また、ヨハネの第一の手紙四章十節のみことば、

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

というみ言葉です。

今もよく覚えているのですが、家に帰ってからも、神を信じても来なかった私のために十字架にかかってくださっているイエス様の姿が、頭から離れません。夜、床に就いてからも、私の罪のために十字架で苦しんでくださっているイエス様のお姿が心に迫ってきます。このイエス様の愛を知って、「信じます。信じます。どうか私をお赦しください。」と布団の中で、思い出せる限りの罪を悔い改め、涙ながらに初めて祈り、イエスキリストを信
じる信仰に導かれました。

翌日の朝、目覚めた私の心からは、罪の重荷が取り除かれ、心には今迄感じたことのない心の平安が与えられていました。
不思議なように病気の再発や将来に対する不安からも解放されました。
全ての問題がすぐに解決されたわけではありませんが、何か心配があっても神様にお任せするように変えられました。どこから湧いてくるのか、喜びや感謝が与えられました。

「だれでも、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

というみことばの通りでした。そして、その年のイースター礼拝で洗礼式の恵みに預かりました。
それ以来、四十九年間、神様は、変わることのないご真実をもって、私の人生を新しく生まれ変わらせ、思いもよらない祝福をもって導いてくださってきました。神様に感謝しています。

あなたも、ぜひ一度、教会にいらっしゃいませんか。

花の木キリスト教会牧師 伊東道夫