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皆様は、キリスト教の礼拝に出席されたり、聖書の話をお聞きなられたりしたことがあるでしょうか?ミッションスクールのチャペルや、キリスト教式の結婚式などに出席した経験のある方がおられるかもしれません。聖書は、世界のベストセラーですから、アダムとエバの話や、ノアの箱舟、モーセが海を割ってイスラエルの民がその間を渡った話など、断片的には、話を聞いたことがある方も多いのではと思います。聖書には、私たちの経験を超えた出来事も多く記され、預言書のような理解の難しい書物も含まれていますが、最も大切なのは、この自然界すべて(空間や時間)を造られた神と、神によって造られた人間との関係についての教えです。
ダーウィンが唱えた進化論では、人間は長い年月をかけ、進化と自然淘汰を繰り返してきた生物の一つに過ぎないと論じていますが、その証拠は乏しく、科学者の間でも異論が拡がっています。もし彼の言う通りだったとしても、どうして私が(ほかの誰かではなく)私として存在しているのか、ということについては答えを与えません。
聖書は、私たち一人ひとりは神に造られ、愛されている存在だと伝えています。聖書にはこのように教えられています。
「わたし(創造主なる神)の目に、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4a
どんな境遇に生まれたとしても、病や障がい、家庭環境など生き辛さを抱えていたとしても、問題や悩みの中にあったとしても、あなたは、創造主なる神の目にかけがえのない存在である、と聖書は告げています。神が造られ愛しておられるゆえに、私たち一人ひとりは尊い存在なのです。
古代キリスト教の司祭であり神学者であったアウグスティヌス(4~5世紀)は、このように述べました。
「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができません。それはあなたが私たちを、ご自身にむけてお造りになったからです。」
人は、神との霊的交わりに生きる存在として造られた、と聖書は教えています(創世記1:27、2:7)。しかし最初の人間であるアダムとエバが、神に背いて罪を犯したために、人間は霊的いのちを失ってしまいました。そして神との霊的交わりを失った結果、人間同士も互いに争い支配し合うことになってしまったのです。自分のいのちや周りの人のいのちを尊ぶことができず、不安や憎しみに心を支配され、まことの神ではなく、虚しいものを頼って生きるようになってしまったのです。そのような罪の奴隷となっていた私たちを、救って本当のいのちに生かすために、神はひとり子であるイエスをこの世界に送ってくださいました。
「神は実に、そのひとり子(イエス・キリスト)を与えるほどに世を愛された。」ヨハネ3:16
イエスは、十字架の死と復活によって、救いの御業を成し遂げて、私たちを罪から解放して、永遠のいのちに与らせ、神との霊的交わりに生きるようにしてくださったのです。
罪がもたらす破壊と悲惨によって、私たちは皆、様々な傷を受けています。しかし、イエス・キリストが与えてくださる父なる神との霊的交わりは、私たちを、すべての苦しみや悩みから解放し、慰めと平安に与らせるのです。私たちは皆、この神の永遠の愛に結ばれて、平安と希望をもって生きるようにと招かれているのです。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28
神は、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりを安らぎと希望に満ちたいのちへと招いておられます。皆様もぜひ、教会の礼拝に足をお運びください。心から歓迎いたします。
☆花の木キリスト教会は、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは異なる伝統的なプロテスタントの教会です。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネの福音書3章16節 |
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 マタイの福音書11章28節 |
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 ヨハネの手紙第一 4章10節 |